20010902(sun.) 12815
先日の横浜のライブの感想をいくつかメールでいただきました(掲示板にひとつしかないのは寂しいかぎりですなあ…)。
「何故、喋りが一言もなかったのか?」という意見がいくつかありましたので、この場を借りて。
クラシックのコンサートには特にMCがない(詳しい訳ではないが)。それがすごく好きだ。いいわけ無用な感じで、音で全てを表現するしかない。セットや衣装が特に奇抜なわけでもなく、純粋に音楽だけで勝負しなくてはいけない。リスナーもその音楽を聴くためだけにお金を払っている。
もちろんエンターテインメントとして、いろんな形のライブがあっていいと思う。喋りでグイっと人を惹き付ける70年代フォークシンガーや栗Qのような(笑)スタイルだってありだし、メイク、衣装、舞台装置で人気を集めるアメリカン・ハードロックの人達もプロレスみたいで笑えるし、ま、要は結局、人がお金を払う価値があれば、なんだって成り立つのが資本主義なのだから。
実はオレも昔よく喋っていた。15分くらいのMCをしたことだってある。あと、演奏以外のネタを考えるのも好きだった。カズーをたくさん用意してお客さんに配ってみんなで合奏したり。自分の誕生日にファンの人を集めて野外録音してみたり(あの時、熱中症で倒れた人がいなくてホントによかった)。でもそのうち、そんな企画が案外得意なものだから、オレはひょっとして音楽家というより企画マンの方が向いているのか? たぶんそうだろう! みたいな考えが沸々と沸いてきた。と同時に集まって来てくれる人達は果たして自分のどこに価値観を見いだしてくれているのか? もし音楽に千円、企画に二千円だったら、企画がない時はチケット千円にしなきゃかな? とか。それだけではない。その頃はライブ後のファンの人達との一瞬の語らいの時間も大切にしていたが、ひょっとしたらそれさえ勘定に入れられているかもしれないと疑いだした。
そんなある日、早川(義夫)さんのライブを観た。一言も喋らず、黙々と歌い続けるその様は、先に書いたクラシックの硬派な部分に通じるものがあって、好感を持った。純粋に音楽100%のエンターテインメント。何かが足りないのではなく何かが多いのだ。かっこいいなあ。喋らないことはなんてかっこいいんだろう。「よし、オレもこれで行こう!」それでお客さんが減ってもそれは自分の実力。音楽だけしかできない自分が果たしてどれくらいのモノなのか試してみたい。その日から故意にといっていいほどファンサービスを排除した、というわけです。
この辺のことは実は栗Q本にもチラッと書いていて、本にもあるように、そのあと沖縄に行った時にまた考えがちょっと変わったりしつつ現在はというと、んー、その日の気分次第。 いや、状況によるのですよー。横浜美術館ではマイクがなかったしね〜。
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